インドネシアの歌 (渡辺重視さん提供 )                                                                               TOP⇒index.html

 インドネシアの 歌 (1)花   (2)労働歌  (3)ラグラグ会愛唱歌  (4)民謡と踊り  (5)暫し別れの決まり文句  (6)沈黙の証人  (7)微妙な表現  (8)知らぬが仏

                       (9)千の風になって①  (10)千の風になって②  (11)Jali-jali  (12)Gubahanku  (13)外来曲―賛美歌  (14)Sang Kuriang①

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インドネシアの歌(1):花編

 (インドネシア民謡は花より団子)

 先ず最初に、筆者は「群盲象を撫ず」の群盲の一人であることを宣言しておきます。

インドネシアの歌ばかりを歌うラグラグ会という「同好会」がジャカルタに本部をおき、その支部が東京、大阪、福岡、岡山(自称)にあり、ジャカルタの

  毎週は例外として、日本支部では毎月一回、時間のあるメンバーが集まっては、インドネシアの「なつメロ」や民謡を歌っています。

ラグラグ会大阪支部では玉石混淆ではあるが150曲ものインドネシアの歌を集めて1冊の歌集に仕上げております。と、ここまではラグラグ会の宣伝!

さて、インドネシアの歌にはどんな花が一番たくさん歌われているでしょうか?  

そうです、あなたの推測どおり、ジャスミン(=melati)でした。そして、ばら(mawar)が2番目でした。

更に周回遅れでチュンパカ(カンボジア)、フランボヤン、ラン、ひまわりといったところでした。 

この他、花を美や癒しの象徴として歌っているものや、赤い花とか青い花とかと歌っている曲はそこそこありますが、名前の出る花は案外少ないのに驚きました。

もっとも、現地の人にとっては「日本人はうるさい、一々花の名前を聞いてくるが花の名前なんかどうでもいいじゃないか、ブンガ・プティ、ブンガ・クニン、

  ブンガ・メラーで十分」というのが普通でしたね。

ばらの花が恋歌に歌われるのは世界共通ですが、ここでジャスミンが歌われている民謡が見つからないのです。

ジャスミンはラユアン・プラウ・クラパを始めブンガ・サクラ等ナショナルソングや叙情歌にはたくさん出てきますが、所謂インドネシア民謡には一つも出てきません。

民謡の中でかろうじて一つ花が出てきました。

アチェ民謡の「チュンパカの花(Bungon Jeumpa)に文字通りチュンパかの花がきれいに咲いていると歌われています。

ジャスミンは種類が多く、1年中どの種類かが咲いているそうです。

ジャスミンといえばその芳香。

「香りを想わば、ジャスミンを想え」と言われているほどで、真っ暗闇の中でもその存在がわかるので、夜行性人種には印象深い物になるはずです。

日本でもジャスミンの一種は「春を迎える花」と言われるそうです。

香港を舞台にした古い映画「慕情」でApril Roseというのが出てきますが、これは早咲きのジャスミンの事ではないかと想っています。

ところで、前々から一寸気になっていたのが、インドネシア民謡では果物を含めた食べ物がよく出てくるなということで、調べてみました。

やはり、出るわ、出るわ、インドネシア民謡9曲で食べ物を発見、スイカ、マンゴ、バナナ、サゴ、椰子の実、ガドガド、揚げ豆腐、クルプック、サンタン、

  食べられるかどうかは別として、太陽を蒸し、星を揚げるという歌詞まであります。

小さいころ、お袋が言うには、「色気と食い気とどちらを選ぶかとの問いに、恥ずかしながら食い気が先」といっていたのを思い出します、

  と、意味のない比較をしたところで、副表題の「インドネシア民謡は花より団子」となった次第です。

最後に、筆者はインドネシア国(共通)語は解しますが、バタック・ジャワ・バリその他のバハサ・ダエラーは解しないので、

  インドネシア民謡の全体に亘っての考察ではないことをお断りしておきます。

それが群盲であるとの所以です。

最後にラグラグ会は関イ連の団体会員でもあります。インドネシアの歌を歌ってみたい方、気軽にラグラグ会に声を掛けてみてください。

インドネシアの歌(2):民謡(労働歌)編

  (インドネシアは食うには困らなかった?)

前回は民謡では花があまり歌われていないという説を述べたが、外国と比較してみると、インドネシア民謡には労働を歌ったものが少ないことに気が付く。

普通、民謡にはお国の自慢の名物/風景を歌ったものや、日々の生活上の労働を歌ったものが多い。

つらい労働の最中に歌うもの、盆踊りや秋祭り(収穫祭)などの癒しの時に歌うもの等々。

一方、インドネシアの民謡では、特にマルク諸島にRantau (出稼ぎ)に出て、異郷の地での苦しみを歌ったものが目立つ。

日本の叙情歌に歌われているような、故郷に錦を飾る、即ち成功しない限り故郷には帰らないという、自分自身を励ます悲壮な内容とは違い、マルク諸島の歌は

  率直に「つらい、帰りたい、一人ぼっちだ、お母さん(助けて)・・」といった内容が多い。これは、やはり自然条件から来る社会状況の違いなんだろうか?

日本は食い扶持減らしのための離郷、インドネシアのそれは現金収入のための出稼ぎの違いが歌に表されているのかなと勝手に想像している。

インドネシアは食うだけなら食っていけてたのかなと思われる。最悪ぼろぼろになりながらも故郷に帰れば迎え入れてくれる社会が在ったのではないかと思われる。

同じ出稼ぎでもメナンカバウの方はずっと厳しい物があったようだ。

メナンカバウ語に「手ぶらで(故郷に)帰る」という意味の言葉がある。

Berawai と一語で手ぶらで帰る、しかも言外に失望しているとの意味が含まれているのである。

将に、故郷に錦を飾るに対して裏返しの発想である。農耕文化と漁業狩猟文化の違いが歌に表されている物と考える。

が、実際にはというか、インドネシア文学では故郷に恋人を残したまま都会に出た若者が帰らないという悲劇のストーリーが多数を占めていることから、

  インドネシア人は非常に面子にこだわる誇り高き民族である事が偲ばれる。

メナンカバウ以外の地方でも、やはり、手ぶらでは故郷には帰れなかったのかな・・・・。

さて、労働を歌った民謡であるが、全く無いというのではなく、マルク民謡に伝統的な追い込み漁猟を歌った「E Tanase」という歌があり、

  太鼓や船べりを叩いて魚を網に追い込む様が生き生きと歌われている。

又、マレーシア民謡であるが同じマラッカ文化圏ということでインドネシア民謡扱いになっている歌に、「Dayung Sampan」という歌が

  魚を獲っている光景を歌ったものもある。農耕ではのんびりした調子で稲刈を歌っている歌としては「Potong Padi」という歌があるが、

  Lagu Daerahに分類されていないが内容は民謡扱いしてよかろう。

又、スマトラ東部の歌で耕地をつくるため森を焼いている焼畑農業の状況を歌った曲があるがこれは単に情景を歌ったもののようである。

労働らしいものを歌ったのは今のところこれくらいしか見当たらない。

 (地方語の歌詞がよく判らないので、ここでも「群盲象を撫でる」を地でいってるだろう事をご容赦下さい。) 

もっとも一部の地方では畑仕事は女性に任せて、男共は闘鶏などの博打に現を抜かしていたので、それが労働歌なのだといえば強烈な皮肉になろうか。

又、日常の生活そのものが労働であったと解釈すればGado Gado Jakartaの歌のように「兄ちゃんガドガド買っていって、料理嫌いの物臭奥さん、

  何でも在るよ、安いよ」と威勢良く声をかける物売り、市場の状況を歌ったものはすべて労働歌と言ってもいいのかもしれない。 

日本の北国の冬季出稼ぎ、ヨーロッパのブドウやオリーブの収穫のような季節労働がなく、集中的な労働は稲作以外にはなかったのだろうなと考えれば、

  なんとなく納得できる。

しかし、ボルネオ島北部の森林伐採事業では多数のインドネシア人が従事しており、森林産業関係の歌もある筈だと思う。

ただ、筆者が知らないだけと言うのが本当だとは思うが。

一方、前号の花編で述べたように、食い気の方は盛大に楽しまれています。

やはり、豊かな自然の恵みが原始共産制の中で機能していたのかなと思う。

マンゴ、バナナ、サゴ、椰子の実は当たり前として、ジャカルタ民謡(Surilang)にスイカが食べ物の王様という歌詞が出てきます。

一般に言われているように女王がドリアンで、マンゴスティンが王様であるとの通説と違うが、これは初期の段階で庶民の口に入リ難かったのであろうか

  果物の社会的ステイタスからきたものであろう。

以上、歌の歌詞からの推測ではあるが、歌には文化、社会事情が巧妙に配置されているものです。

インドネシア文化を覗き見しながら一緒に歌って見る気にはなりませんでしょうか? 皆さん?

インドネシアの歌:ラグラグ会愛唱歌編(第3回)

  (ラグラグ会はインドネシア人以上?)

前回、前々回とインドネシア民謡について独断的な意見を述べたが、我々は民謡とはLagu Daerahと分類されている物を対象にしてきたのだが、

日本のある歌集でRayuan Pulau Kelapaをインドネシア民謡として取り上げているのを見つけた。

同曲はLagu Rakyat(又はNasional)とでもいうジャンルに入るが、この手で行くとBengawan SoloもNyiur Hijauも民謡のジャンルにいれても可笑しくない。

ところで、インドネシアの国の広さというか、文化の多様さというか、今の若い世代は自分の出身地以外の地方の民謡をあまり知らない。

これは今の日本でも似たようなものだが・・・。

ラグラグ会にとってインドネシア民謡は最もよく歌うジャンルの一つであるが、民謡と並んでもう一つの重要なジャンルに所謂ノスタルジア曲がある。

上述の3曲も含め、インドネシア独立運動以前から歌われてきたスタンブール、ランガム、クロンチョン(以上いずれも音楽上の分類)等、

  日本の感覚でいう「ナツメロ」がそれである。

このノスタルジア曲は一部の有名曲、たとえばWidri, Jembatan Merah, Selendang Sutra, Sepasang Mata Bola等を除くと

  今の若い世代のインドネシア人は知らない人が多い。

ジャカルタのチキニ通りにTIM(Taman Ismail Marzuki)という音楽公園があるが、I.Marzukiという戦前戦中派の大作曲家のことも忘れられようとしている。

とまあ、何を言いたいかというと、我々ラグラグ会は民謡とノスタルジックな曲を好んで歌っているのであるが、インドネシアの若手外交官が

  ラグラグ会のパーティでそのような歌を聴いて、自分は知らないが「小さい時お祖母さんやお母さんが歌っていたような気がする・・」と。 

あるパーティで私が前述Marzuki作曲のある歌を歌おうとしたら、インドネシアの歌なら何でも伴奏できると思っていた伴奏者がそんな歌知らないと言った時は

  「なんだ、知らないのか?」と思ったものだが、これはこちらが古すぎたなとあとでこっそり反省したものです。

確かにラグラグ会の歌が古すぎるのだが、いかに時間が経とうとも名曲は名曲である。インドネシア人にも忘れられようとしている名曲に惚れ込んでいるのが

  ラグラグ会なのであり、これは誰がなんと言おうとも今後も変わらぬであろう。 

インドネシアと日本の文化が似かよっているのか、インドネシアの歌は、一部の超エスニックなジャワやバリの歌を除いて、特にノスタルジア曲は

  日本人の心に自然に受け入れられるところがある。

これが、我がラグラグ会にインドネシア駐在経験者以外の方々がメンバーとして増えていっている大きな理由であると思っている。

1960(以前?)~70年代に歌声喫茶(ビヤガーデン)が流行り、ビールを飲みながら大声で歌ったものだが、その当時の歌が既にナツメロとなっている日本。

ところが、最近シルバー世代に流行りかけてきたのがこの歌声喫茶であるという。

さもあらんと思うのは私一人ではないと思いますよ。今、世界中で大流行のカラオケとは又違う歌の世界なのです。

この歌声喫茶ではなんとナツメロが主役なんです。現在のポップ類、16ビートの舌を噛みそうな歌と違ってのんびりと、のどを聴かせるでなく、

  自分の好きなように他の人と一緒に大声で歌う。

歌の上手下手に関係なく、又家でこっそり特訓する必要もなく、ほんのわずかな費用で身体だけ参加させて楽しむもので、将に薬要らずの医者泣かせの

  健康社交クラブです。

実はラグラグ会はインドネシアの民謡とナツメロを主役とした、将にこの歌声喫茶なのです。

広いインドネシアの全地域から集めた数多の民謡群、現代インドネシアから消えなんとする豊富なナツメロを後生大事に守るというより、むしろそのストックを

  益々広げようとしているわけですから、将にインドネシア音楽博物館たる存在であると豪語するのは一寸面映いが、心意気はそのようなところなのです。 

内緒の話ですが、今のインドネシアの若者がよく歌っている新しい歌は全然といってもいいほど知らないのです。 

今は、若者の歌は全世界共通で身体全体で感じて歌っているように思われる。

タムタムが強烈なドラムやベースのビートに変わったもの、又、日々の心の内をBGM風の伴奏にのせて詩を詠っているもの等が好まれているが、

  やはり将来ずっと残るのは美しいメロディだと思います。

そして、それがナツメロになるのです。ということは、ナツメロは年を経るとともにどんどん増えていくわけです。

最後にラグラグ会員一人一人が一人のインドネシア人よりたくさんの民謡を知っている、又彼らの知らない歌をもたくさん知っている・・・

  これは素晴らしい事だと自負しています。

インドネシアの歌(4):民謡と踊り編

  (ポチョポチョはナツメロ民謡の救世主)

前回、民謡やナツメロが忘れられようとしていると述べたが、「捨てる神在れば、拾う神在り」なのだ。

最近はパーティの後なんかでテーブルや椅子を脇に押しやり皆で賑やかに踊りだすのが普通だが、これがPoco-Pocoのリズムである。

一時期ナイトクラブで流行ったジルバ、ゴーゴーとは一寸違って、ムラユ文明の要素である歩きが入っている。

歩きながらボックスで踊るのであるが、ステップを覚えれば楽しい踊りである。音楽史の面からみればかなり新しいジャンルであるが、

  このポチョポチョに最近はインドネシア民謡のメロディが使われ始めてきた。

ポチョポチョは少し早めのテンポに合わせて一人一人が自分の周囲のスペース内で踊るのであるが、これがメロディはもうどでもよく、リズムに乗れば

  人の領域にまで足を運んで踊りまわる事ができる。

ここに懐かしのメロディが活きかえったのである。妖しくも物悲しいアチェの民謡「Bungon Jeumpa」がポチョポチョのリズムで演奏されれば、

  もうそれがポチョポチョになっている。

インドネシアで入手したポチョポチョのテープの中にYamko Lambe Yamko(イリアン民謡),Soleram(リアウ),Jali Jali(ジャカルタ), O Ulate(マルク),

  Oina Ni Keke(スラウェシ),まだ曲名を知らない民謡(米のRed River Valleyの盗作まがいの曲)、ダンドゥットのSembako Cintaから

  既にナツメロになっている米国のO Carolまで歌付きで入っているのを聞いたとき、驚くと共にうれしくなってきた。

こうして美しいメロディがポチョポチョの踊りと共に新しい世代の耳に入り、そして残るからである。

実は、ラグラグ会も似たような事をしているのである。

インドネシアのナツメロのリズムであるクロンチョンは我々の手には重過ぎる。ゆったりとしたクロンチョンのテンポでは上手く歌えないのである。

伴奏その物も難しいのではあるが、本場に行ったラグラグ会員、音楽に関してはラグラグ会随一の知見をもった会員なのであるが、

  本場のクロンチョンの伴奏でBengawan Soloを歌うのに大汗をかいたと述懐しているのです。

その様な歌を我々、ただ好きなだけという一般メンバーが歌えるはずもなく、リズムやテンポを歌いやすいように調整して歌っているのである。

古いメロディをポチョポチョのリズムにするのも、歌い難い古いリズムを歌いやすいように新しいリズムにして歌い継ぐのも決して邪道ではなく、

  将にリヴァイバルを実行している事なのです。

今後色々の民謡のメロディがポチョポチョのリズムに乗ってインドネシア中で聞かれるようになる事であろう。

民謡だけではない、ナツメロもポチョポチョのリズムで復活してくるだろう。

さて、民謡と踊りは切っても切れない関係にある。

日本でいえば、雲上人の世界では雅楽と舞、○金族は酒席と芸者、庶民は盆踊り。お隣りの朝鮮半島では太鼓叩いて歌い踊り、

  フィリピンのバンブーダンスは皆さんもご存知の通り。

足に鈴をつけて賑やかに踊るヒンズーのカタック、西欧諸国ではフォークダンスが各地方で独自の発達をしている。

たいていの方が一度は踊った事があるだろうフォークダンスのオクラホマ・ミキサーやマイム・マイムも夫々アメリカ、イスラエルの民謡である。

あの情熱的なフラメンコも然り。このように民謡と踊りは切っても切れないものがあるが、残念ながらラグラグ会にはこの踊りの部分がない。

インドネシアの代表的な踊りはジャワの宮廷舞踊、バリのレゴンやケチャのような悪霊退散の踊り、仮面ダンスのトペン、更に踊りではないがワヤンも含めるとして、

  このような高尚な芸術は伝統的なインドネシア音楽、ガムラン・ジェゴグ・ドゥグンといった音楽で伴奏し、歌の部分は口伝で伝えられるダーランの分野であり、

  我々ラグラグ会の出る幕はない。

それでは、庶民の踊りが無いのかと言われれば、当然のこと、在る。ラグラグ会がその様な歌の採譜が出来てないだけである。

アチェで踊り子が一列に座って手で膝や肩や腕などを叩く踊りや客を歓迎する踊り、Potong Padiという曲もマレーダンス風の振り付け、

  イリアンのYamko Rambe Yamkoはあのリズム感から、皆で手を振り足を踏み歌いながら踊るマオリダンスと似た踊りがあると思う。

カリマンタンにも、スラウェシにもインドネシア全土に踊りはある。

前回ラグラグ会はインドネシア人以上と豪語したが、実はどの民謡がどのように踊られているのか実証不足なのである。

テレビなどで見るインドネシアンダンスの伴奏曲には知らない曲が多い。バリの歌にいたっては歌える曲すらない。ことはインドネシア音楽の

  博物館を目指すラグラグ会にとっての今後の課題でもある。

いつの日か、本場の踊り子にラグラグ会の歌の伴奏で踊ってもらいたいものである。今回はこのような実情をも吐露して読者の識見をお待ちいたし度く。

関イ連の懇親会でポチョポチョを一緒に踊りませんか!

 

インドネシアの歌(5):“暫し別れ”の決り文句

   (asal ・・・であれば、ありさえすれば)

恋愛について語る資格は筆者を逆さ吊りにしてみても何処からも出てこないので、論評は控えるが、インドネシアの歌にでて来る“別れのシーン”を独断と偏見でみてみよう。

男性が恋人を故郷に残して、多分出稼ぎに都会へ出て行くのであろうが、別れの言葉として「きっと迎えに帰って来る」と言うが、守れるかどうかは別として、

  これは世界中何処でも同じだと思う。

ところが、インドネシアの歌でどうも気にかかるセリフがある。

それが上述お決まりのセリフの後に”asal kau menanti”とか”asal kau setia”とか何故か条件が付くのである。

その意味は“待っててくれ(さえし)たら”、“誠実であったら”となるのだが、どうもしっくり来ないものがあるので、この条件を求めるasalという言葉に

  何か別の意味があるのではないかと大きな辞書で調べては見たが、特に期待するような意味が見つからない。

ひいき目に見て、仮定法の願望が含まれているのではないかと信じたいが、確証はない。

参考までに歌詞を抜粋すると、Pergi untuk kembaliという曲には”Hanya sekejap saja ku akan kembali lagi, asalkan engkau tetap menanti” 

  (ほんの瞬きする間に帰ってくるよ、チャント待っててくれるならという意味)。題名そのものも逐語訳でいくと一寸インチキ臭いところがあるが、

  歌そのものは美しいナツメロで、なんでもリバイバルで最新のリズムで復活したとの情報もあるほどの歌です。

Saling Percayaという曲では”Cinta kasihku padamu ....sampai matipun aku jalani, asal kau setia”

  (私の愛は死んでも貫き通すよ、あなたが真実である限り)。

題名は互いに信じあうという意味であるが、信じつづけるのは難しい事なのであろう。

現代人、特に若い世代、は常に口に出して確かめ合う事が必要だと言う事かと、自分自身を振り返って心の中で反省しきり。

もう何十年も”Saya cinta padamu.”という言葉を吐いたことが無いのだから。目でいった事はあるんだが・・・。

恋愛に酔った若者の(たぶらかし)セリフの代表に“Tinggi Gunung Seribu Janji” というのがある。

意味は山ほどの約束というか、比ゆ的に恋愛中の美しい美しい約束を意味するのだが、我々のレパートリーにもそっくりそのまま同じ題名の曲がある。

ここでも”Seribu tahun kau berjanji, seribu tahun ku menanti. Asal saja kau setia, aku tak melanggar janji”

  (生涯の約束、ずっとずっと待つよ、真実であるなら、決して約束を反故にしないよ)と歌われている。

ここのseribuは単なる千(1,000)ではなく、seribu-satu 即ち千一(夜)で延々とつづくという意味であるが、ここでもasalが使われている。

ついでに、setiaには従属関係で忠実と言う意味もあるが、歌の中に男優位の社会が歌われているのかとも思われる。

それでは母系社会のメナンカバウではどのように歌われるのだろうかと興味の湧くところであるが、残念ながら歌のストックが無い。

Asal (saja)には「・・・ならば」という意味のほかに「・・・して欲しい」という強い願望が含まれていなければ上述の様な歌が可哀想である。

現実の生活でも机上の知識・常識だけでは世の中は渡っていけない事は衆知の通り。このあたりは、インドネシア人社会に入り込んで長く生活された方なら

  的確な解釈が可能なのだろうと思います。 

余談だが、「・・・しましょうか?」とお手伝いさんが言う時に”Maukah Tuan,saya bantu ....” と言うのを聞いた事はありませんか? 

初め、何をこの野郎!と耳に響いた事を憶えています。

Maukah?を「望む(みます)か?」と聞いたのです。

しかし、本当の意味は「・・・いたしましょうか?」という意味だったというのを理解したのはずっと後だったのです。 

言葉と言うのはその社会に入らないと本当の意味は分らないものです。と言う事でasalには「そうして欲しい」という嘆願、願望の意味があると期待するところです。

とはいえ、恋愛中の口約束は果たしてどれほどの効力があるのでしょうか?

我々ラグラグ会の歌の中には、上述asal saja ・・・という表現ではないが、都会に出ていった恋人からの連絡を長いこと待っていた、やっと手紙が届いた、

  期待に胸を膨らませて封を切ったら、中は空っぽだったり(曲名Sampul Suratより)、長いこと便りが無かったがやっと来た、ところがそれは(他の人との)

  結婚式の招待状だったり(Surat Undangan)と都会に出て行った男が田舎に帰らないという物語、これらの話は極ありふれた話だったのでしょう。

恋愛は男と女の間であるなら、泣く男が出てきても又不思議ではない。

何処に行くのか聞かないでくれ、とても辛い、辛抱できない、望みも無くなった、蜂蜜の様な甘い毒をもったあの赤い唇、ああ早く忘れたいと歎く男もいるのである。

  (曲名Jangan ditanyaより)

歌って面白いですね!

 

インドネシアの歌(6):沈黙の証人

  (恋愛中の約束は証拠力なし)

前回は守れもしない「必ず帰って来るからね」という男の別れの約束の決り文句について述べたが、今回は恋愛中のカップルの約束の保証人を検証してみたい。

ナツメロの中でもよく知られている曲でAngin Malam(夜の風)という歌がある。

Diiring gemuruh angin,meniup daun-daun,Alam yang jadi saksi, kau serahkan jiwa raga(風はビュービューと木の葉をゆらしていた、

  自然が証人になってくれるよ、あなたが身も心も委ねたことを)と恋人の心が離れた事を歎いている男ごころを歌っている。

若者の恋は秘め事、他人の目を避けているので、目撃者は大自然の放浪者である風しかいなかった。

恋人の心変わりを訴えても、風は返事をしてくれない。

又、作者不明なのだがよく知られたナツメロ曲にBunga Anggrek(蘭の花)という歌があり、Engkau cinta kepadaku, Bulan menjadi saksi,

  Engkau telah berjanji sehidup semati(あなたは私を愛していてくれたわ、お月様が照明してくれるもの、生涯愛すると約束したじゃないの!)

  と愛の恨み節。これは、男か女かよく判らないが、後半に代わりの恋人が出来たのね、とでてくるのでやはり女の恨み節であろう。

前述Angin Malamでは嵐の夜が証人となっているが、このBunga Anggrekは証人がお月様でいかにも女性らしい。

ジャンルとしてはポピュラー曲に入り、ラグラグ会としては歌える人は数えるしかいないがBiarlah Bulan Bicara(お月さんの話を聞いてやってよ)という歌がある。

Biarlah bulan bicara sendiri, biarlah bintang kan menjadi saksi, takkan kuulangi walau sampai akhir nanti ・・・(お月さんに聞いてみて、

  お星さんだって証人になってくれるよ、私は二度と過ちを繰り返さないよ)と、これは男性が女性に謝っているようだ。さて、今度は星が証人になっている。

以上3曲の例では、愛の約束を見守っていたのはいずれも夜の自然である。 

「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んでしまえ」ではないが、闇の中の目も片目を瞑って恋人達を祝福していたのだろう。

これが、なにか面白い見世物的なものででもあろうものなら闇の中からうんかの如く見物人が涌いて出て来るところであるのだが。

さて、インドネシアの歌ではjanji(約束)は必ずと言っていいほどdiingkar(反故にされる)されるのが相場となっているようで、

  順調な恋愛は詩にはならないのであろう。 

「約束とは破られるためにある」なんていうと、お叱りを受けそうであるが、以前、アラブ人は人に何か頼まれたときは頼んできた人を失望させるのは悪いから、

  とにかく「よっしゃ、よっしゃ」とその場は肯定的な返事をするのだと読んだことがある。

この「よっしゃ、よっしゃ」はインドネシア語のbesok(明日)に相当するようである。 

ご用心!ご用心!besokは明日のその又明日、又その明日でもある。

よく聞くのだが、社会通念として、インドネシアでは女性にとって離婚再婚はバツイチではなく、より多くの男性に愛されたと言う事でむしろ勲章である

  なんていわれるが、現代社会に於いて今なおそうなのかと聞かれても本当のところは分らない。

確かに欧州の列強が南太平洋に群がり集まった大航海時代を記した本によると、南方民族の性に関するおおらかさは彼等をも驚かしたようではあるが・・・。 

真偽の程は分らないがハワイ諸島のフラダンスは男を虜にする技術であるとか、ないとか?。

 それはさておき、恋の証人は二人の心の中以外にはなにも語ってくれない。

やれ月が見ていた、風が聞いていたと言っても第三者は誰も信用してはくれない。

それでは何か物証でもあれば良いのかといえば、これが又、心もとない。 

ナツメロの中でも特に有名なSelendang Sutra(絹の肩掛け)、Sapu Tangan(ハンカチ)の歌の中では夫々、肩掛け、ハンカチをプレゼントされるのだが、

  やはり恋人に捨てられた後は心の傷を癒す包帯となるだけで、去っていった人を連れ戻す事は出来ない、と言うよりは呼び戻さないようである。

このような歌が多いというのは、国民性として結婚するまではnasib(運命)論者であるのだろうか? 

所謂社会性なのだろうか? 作詞者がマゾヒズム傾向があるのだろうか? 

ブラックユーモア的に言えば、歌を聴く側が「他人の不幸を喜んで、相対的に自己の幸せを噛み締めている」のだろうか。

何も言わないが、お月様が一番良く知っている。 英語で“神(のみ)が知っている”というのは人間は誰も知ることが出来ないという意味ではあるのだが・・・。

歌ではないが、想いは墓までお伴させようっと!

 

インドネシアの歌(7):微妙な表現

   (生兵法は怪我の素) 

インドネシアのナツメロを歌っていて、時々解釈に困る言葉が出てくる。 

ナツメロ中のナツメロとも言えるAryatiという曲の中にDosakah hamba mimpi berkasih dengan tuan(夢の中であなたと愛を囁くのは罪になるのでしょうか

 と男性が呟くのであるが、此処では相手(アルヤティという女性)に対してTuanを使っている。

生兵法ではTuanは男なんだが、アルヤティは何故Tuanと呼ばれるのだろうかと仲間内でも疑問が出た。

同じような例は”Juwita Malam”という曲にも汽車に乗り合わせた「月の化身か」と賛美する女性に対してTuanを使っている。歌が出来た時代にはandaという

  便利な二人称が未だ使われていなかったのだが、一般の人の間で尊称に当たるような適当な二人称が見あたらなかったのかもしれない。

そこで辞書で調べてみたら、なんと女性に対してTuanを使う用法が出ているではないか。

即ちTuan Putriとやんごとなき身分の女性にTuanを使っているのである。

歌の中ではAryatiや月の化身は手の届かない神聖な存在であるので、ここではTuanを充てていいのだなと納得。

・・・しないで! という願望命令文にJangan di- (動詞形)と受動態がよく使われる。

例えば”Jangan Ditanya”という歌にjangan ditanya kemana aku pergiという件(くだり)がある。

ここでの疑問は何故Jangan tanyaと能動態でなく、ditanyaと受動態になっているのか、どんな意味の違いが有るのかということである。

正確に説明し難いのであるが、Jangan tanyaは相手に対して「質問するな」という意味であり、一方Jangan ditanyaは特定の人に対して「聞くな」と

  言っているのではなく、対象になっている本人が他人から「質問される事のないように」という願望の意味であると解釈するに到って

  やっと納得が出来たものである。

「問うなよ!」の意味ではなく、「問わんといてやってや(そっとしておいてや)!」という実に細やかな愛情が感じられる。

ここにインドネシア文化を深く感じるのは筆者だけであろうか。

更にRiau島の民謡”Soleram”の中にnanti jumpa kawan baru, kawan lama dilupakan jangan(先になって新しいお友達が出来ても、

  古い友達の事も忘れないでね)とやはりJangan dilupakanという受動態表現が使われている。

これもやはり語りかけている相手(現在の恋人か)に「忘れないでね」というよりは、将来古い友達になるかもしれない現在の自分が「忘れられないでいて欲しい」

  という願望であろう。

相手に直接依頼するのではなく、間接的にそうあって欲しいという控えめな気遣い、ここにもインドネシアの精神を感じる。

インドネシアでは「所変われば言の葉変わる」。実に多言語があるが、我々の歌う歌の中にも同じ物をさしていると思われるのに多様な表現が使われている。

“Rayuan Pulau Kelapa”というナショナルソングの中には椰子を表すのにKelapaとNyiurが使い分けられている。

辞書で調べてみてもnyiur= kelapaとなっている。

しかし、歌の中では絵になるような風にそよぐ椰子の葉はmelambai lambai nyiur di pantaiという風にnyiurが使われており、

  豊穣を意味する場合はkelapaを使っているような感じがする。

即ちkelapaは椰子の実をより強く連想させる。

スンダ民謡の”Es Lilin”でも椰子ジュースはkelapa mudaであり、決してair nyiurではない。

太陽を表すには我々がよく知っているMatahariが”Bunga Sakura”や“Setangkai Anggrek Bulan”等の歌に使われているが、

  ”Bukit Berbunga”という歌ではMentariというmatahariが訛ったような語が使われている。

更に”Kemesraan”というポップソングではSuryaというサンスクリット語が使われている。夫々の語の違いは定かには分らないが、少なくともmentariは

  matahariの4音節に対して3音節なので詞のリズム感から変化した物と考えていいだろう。

月の事をbulanと言わずにrembulanと歌うことも多いが、これも同様に挿入音を入れて2音節を3音節にして口調を整えるためであると考えれば自然である。

尤もこれが我々外国人には難しいのではあるが。

「歌う」という言葉では、nyanyi, lagu, dendang等が人が歌う場合に使われる。

Nyanyiとlaguはあまり差がないようであるが、dendang は自ら楽しんで何かしながら歌う場合に使われている。

歌いながら踊るときやインドネシアの歌にはあまり見かけられないが労働歌を歌うの場合はberdendangである。

Ciumという言葉も”Ayo Mama”, “Aryati”等の歌に出てくるが、これは必ずしも唇と唇によるキスではなく、

  鼻と鼻をくっつけあう挨拶とか頬ずりととる方が自然である。

日本人が普通キスという場合は”Melati dari Jayagiri”という歌の中でkecupという言葉が使われている。

インドネシアの歌(8):知らぬが仏

   (本当は難しいインドネシア語の発音)

インドネシア語は大方の日本人にとってやさしい言語だと思われているのではないでしょうか。

赴任して数ヶ月でなんとか日常の用事は曲がりなりにもインドネシア語で通じている事だし・・・。

インドネシアの歌をその易しい(?)インドネシア語で無造作に歌っているのだが、知る人ぞ知る。

実は結構可笑しなインドネシア語で歌っているのだが、果たしてどれだけの人が気がついているやら? 

難しい発音はnとng, uとe(曖昧母音)、rとlの区別、更に語尾のhの発音(息の吐き出し)である。

もう一つややこしいのがe[エ]とe[曖昧母音]でスペル上の区別が無い(以前はéとeで区別していた)ので、経験で憶えるしかない。

スンダ民謡にはこの曖昧母音のeを伸ばした発音が頻繁に出てくるので気が狂いそうになる。

誰でも知っている”Nona Manis”という歌のkumis  hitam siapa yang punya・・・(黒いお髭の兄ちゃん誰の恋人なの)をkemis hitam・・・と

  曖昧母音でやると「黒い乞食ちゃん誰のもの」となるのだが、幸いなるかな日本人は曖昧母音でも「ウ」と発音しがちなのでここはしっかり歌えています。

スマトラ民謡の”Kapan Kapan”という歌はKapan kapan kita berjumpa lagi(一体いつ又お会い出来るでしょうか)で歌いだしますが、

  これをKapang kapang kita・・・と語尾をngで歌うと「黴の生えた貝殻チャンいつ又逢えるでしょうか」という意味にとれます。

“Tuhan”という名曲があります。

Tuhan tempat aku berteduh, dimana aku berteduh dengan segala keluh(神よ,私の安らぎを得るところ、私の全ての悩みを鎮めるところ)

  と歌っていますが、この最後のkeluhをkeruh(いびきの意味)と巻き舌でやると、なんと最後の部分が「大いびきをかいて」という意味になります。

そりゃ、大いびきをかいていれば別に神の前でなくても最大の安らぎが得られると思うのですが・・・。

さてラグラグ会やボーカルマニスもよく歌っている曲に”Rayuan Pulau Kelapa” という歌があります。

Rayuan pulau kelapaは「我が愛する椰子の茂る島々」とでも訳しましょうか。

このrayuanがlayuanと巻き舌ではなく日本人の「ラ」の発音に近いlaになったらどうなるでしょう? 

layuは「花などが萎れた」という意味です。

「椰子の茂る島々」と歌うインドネシア讃歌が「萎れた椰子の島々」という弔歌になってしまいますね。

あまり発音で脅かしては気持ちよく歌えなくなるので、発音の悪い日本人には有り難い例をあげましょう。

あの広い、多文化国家であるからには、一つの言葉があまねく行き渡る事はないはず。

日本でも「ひ」と「し」、「す」と「し」、「せ」と「しぇ」の区別がつき難い地方もあるくらいです。

さて、インドネシアの歌を聴いたことのある方、特に東の方の島々の歌手の歌を。 

engkauを”エンカウ”と歌っていることに気づいている事でしょう。標準インドネシア語では”ンカウ”のような発音になります。

又、マルク諸島のほうでは前置詞/接頭辞のkeはkaとなっている。

Kemana?をKamana?と言っても決して間違いではない。同じくマルク地方では語尾のhが抜ける事が多い。

祖国を意味するTanah Tumpah DarahがTana Tumpa Daraと歌われる。これも間違いではない。

更に辞書で単語を調べているとrとlの混同も頻繁に見られる。随分前になるが、スンダ語の中にcadelという単語が見つかった。

なんと一語で「rとlをはっきり区別して発音できなく、rをlと発音をする」という意味であった。本当は舌が短く巻舌が出来ないという意味なのだろうが、

  万歳!インドネシア人でもrとlの区別が出来ないくらいだから、我々日本人も堂々と市民権を主張しましょう。

ところで、我々ラグラグ会の中でも、Indonesiaの発音は「ンドネシア」ではなく「イ(エに近い)ンドネシア」であると言い出したことから色々意見百出。

決め手が無く結局、「いーじゃないか、えーじゃないか、よいよいよいよい!」となっています。

曰「失敗は成功の母」、Flamboyant(火炎樹)という歌には、葉が枯れてひらひらと落ちる、が、そこは大地の膝元、やがて再び芽が出て生き返るんだ

  (落ち葉を歎く必要はない)とroda dunia(輪廻転生)の精神が歌われています。

歌の中ではこの光景を見たのが若い娘さんになっているので、失恋をしたのか、はたまた悟りを拓いたのか?

皆さん、たとえ発音が難しくても、歌は心で歌うもの。プロならぬ一愛好家で通しているあなた!発音なんか気にせず、落胆せずにさあ,楽しく一緒にインドネシアの名曲に酔いしれましょうよ。

 

インドネシアの歌(9):「千の風になって ①」

丁度2年前関イ連ニュースに「千の風になって」のインドネシア語バージョンを紹介しています。

今歌っている歌詞は既にインドネシアに帰国されている総領事館のアキさんとイブイブが筆者のつたないインドネシア語歌詞を

  より完全なインドネシア語歌詞に作り替えてくれたものです。

今回は外国人である筆者が初めに作ったインドネシア語歌詞とインドネシア本国人が作り替えた歌詞を比較してみてもらって、

  いかにインドネシア語が豊かな表現力をもっているかということを分ってもらえればうれしく思います。

筆者の訳した歌詞の出だし部分は Jangan nangis di depan kuburanku, janganlah menangis pula, Di sana tentulah aku tiada

  menidur-nidur bertenang, 此処までが「私のお墓の前で泣かないで下さい、そこに私はいません、ねむってなんかいません」です。 

これが本国人の手になると、Wahai kasih!, Janganlah kau menangis di depan nisan pusaraku, Karena ku tak ada di sana,

  dan juga tak sedang terlelap となりました。

まず始めのWahai kasih! これは筆者もウームと唸り感心しました。

意味は、オーイ、(お墓の前にいる)愛する人たちよ!との呼びかけです。言われてみると、実にこの二語で墓前の光景がありありと想像できるではありませんか。

筆者には全く思いもつかなかった表現です。 

次のJangan kau menangis は、まあ音節数だけで特筆すべき物はありませんが、続くdi depan nisan pusaraku では筆者の語彙不足を

  ぐいぐいと抉られた感じでした。

筆者はごく普通にdi depan kuburankuと「墓の前で」の積りで訳したのですが、訂正後のdi depan nisan pusarakuをみて、

  そうか、墓と墓石は違うんだ、ガーンといった感じでした。

Kuburanは埋葬場所、所謂「墓所」であり、人が墓参りするのは墓所の中にあるゆかりの人の「墓石」なんだ。そう云えば、Karangan Bunga Dari Selatan

  という曲の最後に Hiaskan di batu nisanku karangan bunga darimu.(私の墓石をあなたの花束で飾ってください)というくだりがあった。

更にKarena ku tak ada disana はまあ大差なしとして、続くdan juga tak sedang terlelapのところは筆者はtiada menidur-nidur bertenang

  と文字通り「静かに眠っていない」としたが、流石に「ぐっすりと眠ってはいない」と言う意味のtak sedang terlelapは脳裡に浮かばなかった。

次の「千の風になって」の部分を筆者はTelah jadi angin ribuan, telah jadi angin berribu-ribu と訳したが、此処はうっかりと

  angin と ribuanの順序を間違えていた。

Angin ribuanではribuanという者(または物)の風という意味になる。

Ribuan anginで「幾千もの風」という意味になる。ここの訂正個所がまた凄い。

なんとNamun ku menjelma, menjadi ribuan anginと「千の風になって」が「化身して千の風になった」という意味になるmenjelmaという歌詞に変わった。

ここで、二度目のウームだ。 

このmenjelma という言葉はI.マルズキのLambaian Bungaという曲の最後にHasratku ingin segera menjelma kupu-kupu terbang malam

  menjelang kasihku(蝶になって夜中に飛んでいきあなたを抱きしめたい)と使われている。

「あの大きな空を吹き渡っています」を筆者はBertiup berkelana angkasa yg menjelang kamu semua(あなたたち皆を懐につつんでいる

  大空を気ままに吹き渡り)と一寸意訳したが、訂正はYang terbang di langit luas, selalu banyut tersapu angin.と

  純粋に大きな空を吹き渡っているという訳になっている。  続きは次号で。

 

インドネシアの歌(10):「千の風になって ②」

2番の歌詞に入って、「秋には光になって畑に降り注ぐ」を筆者はDi musim gugur, ku jadi sinar surya, membesarkan tumbuh-tumbuhan

  と後半は草木を育てるという意味に訳した。

ここはあまり大きな変更はないが、それでもDi musim gugur, Ku menjadi cahaya, yang menyinari tetumbuhan.

  と原文に忠実に「光になって降り注ぐ」となっている。

畑は字句通りの土地としてではなく、畑に育っている植生を意味するtetumbuhanとなっているが、これは筆者のtumbuh-tumbuhanが

  ミスリードしたかもしれないが、意味としては問題ない。

「冬はダイヤのように煌めく星になる」のところは始めはDi musim dingin, jadi salju putih berkilauan bagai intan.と訳したのだが、

  ここはほとんど同じのDi musim dingin menjadi salju, yang berkilau bagaikan intan.となっているが、より語呂が良くなっているのは否定できない。

「朝は鳥になってあなたを目ざまさせる」を筆者はWaktu pagi datang, jadi burung mem- bangunkan kamu としていたが、

  ここはPagi jadi burung、 yang s’lalu membangunkanmuといつも(毎朝)目ざまさせるという意味になっているが、だいたい同じ。

「夜は星になって あなたを見守る」をMalam, menjadi bintang terang, melindungi kamu semuaとほぼ直訳した。

ここはDikala malam menjadi bintang, yang tak lelah melindungimuと「夜には星になり」という意味をはっきりさせるためdikala malamと変更された。

筆者のMalam, menjadi bintang terangは「夜が輝く星になる」と、星になる主語が誤解される可能性もある。

後半は筆者は「あなたたちみんな」を見守るという意味をだした。

変更後はtak lelah melindungimuと「決して休む事もせずに、いつも見守っている」という意味合いになっている。

3番は1番とほぼ同じ歌詞を繰り返すが、一箇所だけ違うのは「そこに私はいませんよ、眠ってなんかいません」が「そこに私はいませんよ、死んでなんかいません」

  と眠ると死ぬと使い分けしているが、意味としてはおなじでなので、此処を筆者はaku tiada menidur-nidur bertenang- tenangと

  1番の歌詞を繰り返したのだが、変更後はしっかりと「死ぬ」の意を汲んで、ku tak ada di sana, juga tiada di alam bakaと

  「そこにはいませんよ、そしてあの世にはいっていないのですよ」と見事に死の意味が表現されている。

作詞段階の背景は以上のとおりであるが、この詩の原作者はアメリカン・ネイティブといわれている。

死後の世界で風になって残された家族や友人の周りを飛び回るという発想は一神教であるキリスト教やイスラムでは考えられない、

  作詞者はアニミズムの影響下にあるだろうなと容易に推定される。

だからこそ、八百万の神々、神仏習合の宗教観が受けいれられている日本で爆発的にヒットしたのであろう。

念の為、この事を知り合いのインドネシア知識人に確認したところ、宗教感的にはイスラムでは「人が死後、風になる」なんて考えられないということであった。

ところで、この曲を耳にして、おや!なにか聴いた事があるような曲だなと思われた方はいませんか? 

フランスの歌だったと思うが、ソレイユという曲にメロディがよく似ていることに気づいたでしょうか。

 それと、インドネシアの曲にもよく似たメロディの曲があるんですよ。

Tak Ingin Sendiri という曲がラグラグ会のナンバーにあるのですが、私はこのTak Ingin Sendiriを楽譜無しで弾くといつも3曲がごちゃ混ぜになります。 

インドネシアの歌(11):Jali-jali

ジャカルタ民謡にJali-jaliという歌がある。我がラグラグ会の教科書と称する楽譜集にも掲載されている。

このJali-jaliとはどんな意味なのかは分らない。

特に意味がないとラグラグ歌集には説明がついている。

念のためにKamus Besar(大事典)で調べてみても、Jali-jaliはジャカルタの民謡の曲名と記してあるだけ。

話を先に進めるためにも、歌詞を紹介しよう。

Ini dia si jali-jali, (これぞ、ジャリジャリだ) lagunya enak, lagunya enak merdu sekali(歌はいいな、歌はたのしいな、ほんに甘い声)、

capai sedikit tidak perduli, sayang,(一寸くらい疲れても一向に構わないさ)、asalkan tuan, asalkan tuan senang di hati(あんたが喜んでくれるなら)

 というのが歌い始め、さあ、これからJali-jaliを歌うんだという序の部分である。 

参考までにsi は擬人化するときに使い、si pendekはおちびさん、si gemuk はおでぶさん、という意味になる。

更に本番の歌詞はPalinglah enak si mangga udang(マンガ・ウダン=マンゴーの一種=は気楽なもんだ)、pohonnya tinggi, pohonnya tinggi,

  buahnya jarang(なりはでっかいが、実はほとんど成りやしない)。

更に続けて歌うには、Paling- lah enak si orang bujang, sayang(なんと気楽でいいんだろう、独り者は)、

  Kemana-mana, kemana-mana, tiada yang larang(どこへ行こうと、誰も咎めはしない)と歌われている。

そして、同じような歌詞が何回か歌われて、最後にもう終りというフレーズになるという歌である。

歌詞の説明は後に譲るとして、筆者の目的は実は題名の意味なのである。

さて、意味が分らないではこちらの気持ちも治まらないので、色々こじつけてみた。

歌詞の内容が(当時の)ジャカルタの目抜き通りの光景なので、暇なご人がぶらぶらと散歩がてら面白い物を探し歩いている光景から、チャリチャリ(捜し求める)

  も面白いなと一瞬思ったが、直ぐに打ち消した。

LとRの区別のつかない日本人ならいざ知らず、インドネシア人がjaliとcariを混同するはずがない。

次に「歩き回っている」という意味のjalan- jalanから、jalani-jalaniを連想し、それがjali- jaliになったかと推論してみたが、あまりにもこじつけがましい。

このあたりで一度語源探しを中断。

ここで、mangga udangというマンゴーの木が出てくるが、どうもインドネシアではエビが評判が悪い。

ここでは、実の成らない大木とののしられている。Kepala udang(エビの頭)といえば、頭のサイズは大きいが、中身は空っぽ、

  すなわちおつむが空という意味である。

又、Udang tak tahu bungkuknya.(エビは自分の背中が曲がっているのをしらない)と陰口を叩かれている。

今なら、エビは外貨を稼ぐ貴重な資源だくらいに格上げされても良いと思うのだが。

さて歌詞は、悪いけど少し飛ばして、続けて歌うには、Palinglah enak pengantin baru, sayang, Masuk ke kamar,

  masuk ke kamar cubit- cubitan(いいよ、いいよね、新婚さんは、部屋に入っては、イチャつくばかり)とうたわれている。

お散歩のお爺さんも(いや、お婆さんかな?)ちょっと覗き趣味?

さて、本論に戻って、jaliの意味を探していたら、アラビア語原であるが、「創作等の過程でパッとひらめく」という意味があった。

オッ、これはいける。Jaliを「ひらめき」という意味にとると、Si Jali-jaliは頭のsi(~君、~さん、~する者)を活かして、

  「俺は詩の天才だ、ひらめきの天才だ。」の意味にこじつけられる。

徘徊爺いは有頂天。筆者もやっぱり有頂天。 だけど、やっぱり辞書には「曲名」としか載っていないんだよな。 

 

インドネシアの歌(12):Gubahanku

 もう30年以上前のことだが、ジャカルタ駐在の男性陣の中で、インドネシアに赴任したからにはインドネシアの歌を1曲でも歌えるようになって日本に帰ろう

 との声が出てラグラグ会が発足し、始めはわずか3曲からスタートしたのだが、3曲の中のひとつが今回採りあげた歌”Gubahanku”である。

Gubahanとは著書とか作曲といった意味である。歌の内容は遠距離恋愛の女性へ男性が歌を作り、延々と愛を訴えるのである。

歌い始めは Ku tuliskan lagu ini, ku persem- bahkan padamu、 (我、此処にこの曲をつくり、汝に捧げん) walaupun tiada indah syair lagu

  yg ku gubah(詩歌は美麗に非ずとも)、Ku ingat- kan kepadamu, akan janjimu padaku(想い出すは汝の約束) hanyalah satu pintaku,

  jangan kau lupakan daku (我がただ一つ願いしは「我を忘れたもうな」)。

此処までが起承転結の起承部分である。 



janjimu padaku(私に対する約束)は他の曲にもたくさん出てくるが、女性が男性に対して言う方が圧倒的に多いのだが、

  此処は男の恨み節になっているようだ。 

以前、インドネシアに在住したことはまだないラグラグ会所属の若い女性がこの曲を歌って、「たった一つの願いは僕の事を忘れないで」なんて、

  あまりにも哀れすぎると感想を漏らしていた。 さて、起承転結の転の部はWalau apa yg terjadi, tabahkan hatimu slalu,

  (例え何が起こるとも常に心強かるべし)jangan sampai kau tergoda, mulut manis yg berbisa.(決して誘惑されまいぞ、甘き毒持つ囁きに)、

  と此処でおや!この男は女性を励ましているのか、まさか! 

他の男に心を奪われないで欲しいと訴えているに違いない。



さて、結の部分はSetahun kita berpisah, sewindu terasa sudah(離れ離れの一年間、我には8年もの永きにも思おゆ),

  Duhai gadis pujaanku, cintaku hanya padamu.(おお、我が称賛の的、乙女よ、愛するはただ汝のみ)と切なく訴えている。

 ここでsewindu terasa sudah(8年もの永きにも思おゆ)の部分のsewindu(8年)に永いこと引っかかっていた。

8年とはまたきりの悪い長さだなと。6年でもなし、10年でもなし、12年でもない。

そこで改めてじっくり辞書とにらめっこしたら、sewinduはどうも年月の長さを表す一つの単位(daur kecil)であることが分かった。

このsewinduが15回でdaur besar(120年)になるというのである。

しかし依然として8年という単位は謎のままであった。

別の機会にイスラム暦を調べていたとき、イスラム暦は29日の月と30日の月があり、1年は一般的な太陽暦より11日一寸短く、そのためレバランは

  毎年11日一寸ずつ早くなるのだが、32年で一巡してまた元に戻るという記述に接したときはっと閃いたのが、32年の半分は16年、そしてその又半分は8年に

  なる。そうか、一巡の半分の半分、すなわち1/4(seperempat)ならきりがいい。

このsewindu(8年)が日本の一昔(10年)にあたるのだろうとやっと納得。

話は元に戻るが、歌詞は既述の所までで終わっている。

このあと、この二人の仲がどうなったかは窺い知れないが、この類の他のインドネシアの歌から類推するに、この二人は多分結ばれなかったであろう。

何故ならば、離れ離れになった場合、通常は町に出た方が田舎には帰ってこないからである。

文学でもそうだが、インドネシアの歌に日本でいうハッピーエンドはまずない。文字通りhappy endになるのである。

英語ではhappy endはハッピーがエンドするという意味になる。そう、幸福が終わるのである。

インドネシアの歌(13):外来曲―賛美歌編

インドネシアは全国民がイスラムというわけではない。

イスラムがインド・スマトラ島、マレー半島、ジャワ島へと南へ東へと伝播したのと同様、キリスト教は香料の産地・マルク方面・北スラウェシ、

  更にスマトラのバタック族地方などイスラムも敬遠したであろう土着宗教の強かった地域へと広く伝播した。

キリスト教の伝播と共に西洋音楽や賛美歌が持ち込まれ、それらの楽曲がいつしかLagu Daerah(インドネシア民謡)となり、今に残っている。

筆者の調べたところでは今のところ Naik Naik ke Puncak Gunung 1曲だけだが完全に讃美歌と同じものである。 

Lagu Daerah Maluku・Sulawesiにはまだたくさんヨーロッパの歌曲を原曲とするものがあると推測される。

さて、賛美歌以外で今でもよく歌われている外来曲を原曲とするインドネシア民謡、Panon Hideung(ロシア), Bunga Sakura(日本)、

  更には比較的新しいKopi Dandut(コーヒールンバ)等は別稿に譲り、今回はインドネシアのKidung Jemaat(=賛美歌)のうち、

  日本人もそのメロディをよく知っている曲を紹介いたします。

まず、誰でも知っている曲「聖夜」=Malam Kudus(賛美歌に載っている歌詞)は次の通り。

1)     Malam kudus, sunyi, senyap; dunia terlelap.

    Hanya dua berjaga terus: ayah bunda mesra dan kudus;

    Anak tidur tenang: Anak tidur tenang



ここで、malam kudus-malam suci聖なる夜、tidur tenang=安らかに眠っている

 一方我々ラグラグ会が歌っている歌詞は

2)     Malam Kudus, sunyi senyap

    Bintang-Mu gemerlap

    Juru-slamat manusia: Ada datang didunia

    Kristus anak Daud, Kristus anak Daud

ここで、Bintang-mu gemerlap=星は輝き、Juru-selamat=安泰の名人=すなわち救い主のこと、Kristus=キリスト、Daud=ダビデの意味で、

  日本で歌われている歌詞は前半は2)の訳が相当し、後半は1)の歌詞が相当しています。

次に数年前日本でもよく歌われた曲にアメージング・グレースという曲がありましたが、これも賛美歌に名を連ねています。

分かりやすいように英語対訳で歌詞を記してみます。

題名:Ajaib Benar  Anugerah

        英 Amazing Grace

   Ajaib benar anugerah:

     英 Amazing grace, how sweet the sound

   pembaru hidupku

     英 that saved awreck like me

   ‘Ku hilang buta bercela

     英 was blind but now I see

と1番の歌詞だけですが、どうですか、この曲をご存じの方、インドネシア語で歌詞が付きましたでしょうか。

 Ajaibは不思議なとか通常ではないという意味、anugerahは上位の者から下位の者への贈り物、ここでは神の恵みの意味です。

Pembaru hidupkuは私の人生の更新者、新しい生き甲斐を与えてくれた主とでも訳しましょうか。 

‘Ku hilang buta bercelaは盲目的な不完全さが無くなった、すなわち目が覚めたとでも解釈すれば分かり易いですね。

Olehnya ‘ku sembuhは神により癒されましたと訳しました。

英語の歌詞もほぼ同じ意味ですね。 残念ながら日本語の歌詞は調べておりません。

近所のデイサービスでこの曲を歌ったら(英語だったけど)、あるお婆さんがしみじみと「心が洗われるような感じがすると感じていましたが、

  そうですか、賛美歌だったのですね」と。

 

インドネシアの歌(14):Sang Kuriang (1)

Sunda民謡の中に、古い言い伝えをもとにした歌があり、曲名はSang Kuriangという。このSang Kuriangというのは

  数奇な運命をたどった王子の名前であるが、物語りにはバンドンの有名観光地の一つ、Tangkuban Perahu山の由来も語られている。

曰く、昔Sungging Perbangkaraという王が狩りに行き、森の中で山芋の葉の上にair mani(精液)を放出し、

  たまたま通りかかったのであろうかWayungyangという名の雌豚が人間になりたくて精進修行していたのだが、その精液を飲んだそうな。

Wayangyungは妊娠して美しい赤ん坊を産み、赤ん坊は父親によって王宮に連れて行かれ、Dayang Sumbi (又の名をRasasatiと)と名付けられた。

このDayang Sumbiは美しく聡明だったので近隣の王たちがこぞって嫁に欲しがったが誰一人として受け入れられなかった。

ついには、群がる王たちは彼女を巡って争いを初めたのである。

さて、豚が人間の精液を飲んで妊娠するなんてナンセンスと云ってしまえば話が続かない。

実は、日本にも今昔物語の中に「蕪(かぶら)を食べて妊娠した未通女」という話がある。

これは、都からきた役人が村を見回っている時に、馬上でぽかぽかと陽を浴びているうちに、なんとなく催してきて畑の蕪に穴をあけて取りあえず用を足した

  という話だが、これは実はかぶらの様に真っ白な健康そうな娘さんに、お胤頂戴の風習でなるべくしてなったと考えられる。

同様に、森の中の狩りの最中なら、さしずめイノシシのような精悍な娘が王の心を射止めたのであろうと考えれば筋もとおる。

そこはそれ、物語だから少しくらいは話を作り上げるのも一興。

さて、件のDayang Sumbi姫は自分が原因で争いが起こったことにうんざりして、自ら請うて1匹の雄犬を連れて山に籠もった。

犬の名はTumang といった。ある日姫が機織りをしていた時、梭(機織りの横糸通し棒)を取り落とした。

姫はちょっと怠惰な気分だったので拾いには行かず、何気なしに「あの梭を拾ってきてくれた人が男だったらその人の妻になってもいい」とつぶやいたのであった。

なんと、犬のTumangが拾ってきて姫に渡した。

そこで、Dayang Sumbiは犬のTumangと結婚し、男の子を設けた。そして名前はSang Kuriangとつけられた。

さて、皆さん、Dayang Sumbiが1匹の雄犬と山に籠もったと云うあたりから想像していたのでしょうが、想像通りの展開になってきましたね。

姫と犬の話なら日本にも有名な里見八犬伝がありますね。物語だから理屈はこねずにすすめましょう。

 Sang Kuriangは生まれが示すように神秘な力をもっていた。

そして、大きくなるまでいつも犬のTumangと遊んでいた。

実際Tumangが実の父親であるとは知らず、ただ忠実な犬としてしか認識していなかった。

やがてSang Kuriangは立派な頑強な若者になった。

ある日Sang Kuriangは森で狩りをしていた時、TumangにWayungyangという名の雌豚を捕まえてくるように言われた。

もちろんWayungyangが自分の祖母であることも知らなかったのは当然のことであった。

ここで、雌豚の捕獲にはTumangが一緒に行かないと言うのに怒ったSang Kuriangは忠実な犬のTumangを父とは知らずに殺してしまったのである。

そしてTumangをばらしてその肉をDayang Sumbiに持ち帰り料理して食べてしまったのである。

このことを知ったDayang Sumbiの怒りはいかばかりか、椰子殻で作った柄杓でSang Kuriangの頭をぶっ叩き、頭に傷を負ったSang Kuriangは叩き出された。  (続く)   

 

インドネシアの歌(15):Sang Kuriang (2)

頭に傷を負ったSang Kuriangは傷心のまま諸国をさまよいつづけ、流れ流れてある町にたどりついた。

そこがDayang Sumbi、すなわち母がいる町とは気がつかなかった

Sang Kuriangはその町で会ったお姫様がDayang Sumbiとは知らなかった。

母も又息子だとは気がつかなかったのである。この二人の間で恋の物語がつづられるのだが、ある時偶然にSang Kuriangの頭の傷跡から

  Dayang Sumbiは恋人が息子だと気づくのである。

Dayang Sumbiは二人の関係に誤解があったことを説明するが、Sang Kuriangは結婚するといってきかない。

そこで諦めさせるために、母はSang Kuriangに一晩のうちにCitarum川を堰き止めて湖を作り船を作ってくれれば云う事を聞きましょうと持ちかけ、

  Sang Kuriangは同意したのであった。



 Sang Kuriangは東に生えていた木で船を造り、その根はTanggul山となった。

西は枝を重ねてBurangrang山になった。Guriang(猿の仲間)たちの力を借りて池もほとんど出来かけていた。

Dayang SumbiはHyang Tunggal(最高神?)にSang Kuriangが成し遂げられないように頼んだ。

Dayang Sumbiは織りあげた白布を広げた。まさにその時東の空が明るくなった。

Sang Kuriangはがっくりとし、怒りのあまりSanghyang Tikoroにあった堰をぶっ壊し、Citarum川を堰き止めていた堰は東に放り投げられ

  Manglayang山になった。

Bandung湖は元に戻り、苦心して作り上げられた船は北の方向に蹴っ飛ばされて上下逆になりTangkuban Perahu山になった。

Sang Kurianghaは、なおもDayang Sumbiを追いかけ続けたが、Dayang SumbiはGunung Putriに逃げ、

そこでunga jaksiという香りのよい草に姿をかえてしまった。Sang Kuriangはといえば、Ujung Berungといわれる所に到着後、

  それきり行方が分からなくなったそうな。

さて、Sang Kuriangの歌を紹介しましょう。

Gung dupa mengalun buka tabir purbakala

   ジャーン、お香も香り、昔の話の幕開けだよ。

Riwayat Piangan,Ibu nan menanggung malang

   プリアンガン(地方の名)の、不運な母の物語

Dipercinta oleh putra Sangkuriang sakti

   超能力を持ったサンクリアンに愛され求婚された。

Walau mengetahui itu ibunya sejati

   自分の産みの母だということを知っていたのに。

Agar dapat berlari, digelap malam diminta

menyiapkan t’laga dan p’rahu semalam

   (求婚を)断る口実として、闇に紛れて、一晩の内に湖と船を作ってくれたら、とたのんだ。

Nun ditimur fajar tiba sebelum waktunya

   まだ仕上がらないうちに東の空が明けてきた

Sang Kuriang putra tak memenuhi janjinya

   サンクリアン王子は約束を果たせなかった。

歌は物語の最後の部分を歌っているだけである。

バンドンのTangkuban Perahuは船がひっくり返って底をみせた形の山として有名である。

そう、Sang Kuriangが腹立ち紛れに蹴っ飛ばした船がひっくり返って山になったという話だ。

この物語に出てくる話は世界のあちこちで見られる。

日本の今昔物語の中の一話や里見八犬伝を思わせる話、又実の母に恋する息子の話はギリシャの叙事詩にも出てくる。

ことに最近TVの美魔女をみるにつけ、母に恋する息子が出てきてもおかしくはない。

昔、「われらの父の父」という本で人間の祖先は豚と猿の混血だというのを読んだことがある。

豚は生物学的に人間に非常に近いのだそうだ。

インドネシアの歌(16):マルクの歌 (1)

 マルク諸島は歌の宝庫で、日本でも馴染みの深い歌が多い。

Nona Manis, Ayo Mamaはその代表的な歌で、その他にCaca Marica, Gepe Gepe, Goro Gorone, Hela Rotane, Kole Kole, Kota Ambon,

  O Ulate, Ole Sio, Rasa Sayange, Sarinande, Sio Mama, Naik Naik ke Puncak Gunung等々、きりがなく我がラグラグ会もよく歌っている。

いずれも軽快な歌が多いのは島嶼民族の特徴かもしれないが、それ以上にマルク諸島はポルトガル、オランダ等の西欧諸国の影響が強かったので

  西洋音楽の影響が強く、スマトラ島、ジャワ島、バリ島等とはかなり違ったものになっており、我々日本人には歌いやすいメロディが多い。 

実際、マルク民謡と言われる歌の中には西洋の歌(メロディ)が元になっている歌が多いようだ。

我々が歌う時、これまでの蓄積から歌の大意は何となく分かっているのだが、個々の言葉(単語)は意味の分からないものが少なくない。

マルク諸島は島数が多いので主な言語(方言)だけでも29種類もあり、更にそれに少数部族(集落)語が加わる。

一応マルク語として共通語もあり、それはBahasa Melayuがベースになり、いくつかのほぼ規則的な“訛り”で構成されている。

Bahasa Melayuはイスラムが生まれる前から、交易用語としてマルク諸島の、主に沿岸部であろうが、広く使われていたので

  自然に共通語の地位を得たものと推測される。

余談になるが、Bahasa Melayuはメッカへの巡礼が終わり、巡礼者が現地に残ってしばし共同生活をしたらしいが、

  その時インド洋から南シナ海、ジャワ海、スラウェシ海、バンダ海周辺の国からの巡礼者の間での共通語として使われていたという歴史をもっているくらいで、

  マルク諸島で共通語として使われ始めたのは当然のことであろう。

余談ついでに、インドネシアで最もbahasa daerahが多い地方はスラウェシで、主要方言だけで44言語もある。

マルクは島が多いので、言語が多いのは容易に想像できるが、スラウェシの方がはるかに多いということは、

 いかにスラウェシが山が急峻で地形が複雑かという証拠でもある。

即ち、隣の部族との交流が地形的要因、又は部族間の敵対要因などで困難であり、それぞれ孤立していたので言語の交流もなかったということであろう。

さきほど、“いくつかの規則的な訛り”と述べているが、次に挙げてみよう。

先ず、誰でも気がつくのは、語尾の”h”が抜けるということである。Tanah tumpah darah が Tana tumpa dara となる。

次に、曖昧母音の ”e” が “a”となる。Kemana pergi は Kamana pigi(=pergi)となる。

更に、”ber~”の接頭辞は “ba~” になっている。Donci e berlagu はDonci e balagu となる。(ここで、donci は musik のことである。)

まだまだある。単語の語尾の “n” や “m” が “ng”となっている。

dalam がdalangに, makan がmakangになり、語中の “u” が ”o” に変わり、dulu が doloに、tidur が tidor に、belum が balom に変わったりする。

又、最近の若者のIT用語のように、単語を短く縮めるのもあり、sudahが su, pergi(マレー語ではpigi) が pi, mau が moとなるのは、

  将に時代の先取りではないか。

 マルクの訛りは日本人には発音し易い訛りであるといえる。

語尾のnは日本でも発音し難く、ng の方が発音し易い。

調べてびっくり、なんと実は語尾が皆“ng”になっているのは、日本の占領時代の産物だという。

曖昧母音の “e” なんて、“糞喰らえ”のマルク語に座布団2枚差し上げて。

    (続く)

  

インドネシアの歌(17):マルクの歌 (2)

前回のマルクの歌(1)編でマルクの代表的な歌としてNona Manisを紹介した。

ところがである。インターネットで調べても、同曲は確かにマルクの歌なのだが、小生保管のインドネシアで発行された

  Lagu Daerah Indonesiaの数冊の歌集のどれにも載っていない。

歌詞を紹介するので、少し考察してみたい。

 Nona Manis  (可愛い娘)

1) Nona manis siapa yang punya  x  3回

     (可愛いあの娘は誰のもの x 3回)

  Rasa sayang sayange  (ほんとに可愛いね)

2) Baju biru siapa yang punya  x  3回

     (青い服着てる人誰のもの x3回)

  Rasa sayang sayange  (ほんとに可愛いね)

3) Kumis hitam siapa yang punya  x  3回

    (黒い髭のあの人誰のもの x 3回)

  Rasa sayang sayange  (ほんとに可愛いね)

上記がこれまでラグラグ会で歌ってきたものだが、どうもこれはかなり古い時代の歌詞らしい。

インターネットで調べてみたら、先ずBaju biruは出てこない、出てくるのはBaju merahである。

オリジナルは青だったかもしれないが、女の子の歌なので、服は可愛らしい赤にかわったのか、いや国旗の色から上は赤となった可能性が高い。

歌は世につれ、世は歌につれだ、まあ、いいか。

Kumis hitam の歌詞はあまりポピュラーではないみたいだ。 

余談だが、これまで皆と歌う時、「kumis だよ、kemis ではないよ」と口が酸っぱくなるほど、”u” と “e” の違いを強調してきたものだ。

kumisはお髭さんだが、kemis だと物乞いになるので、“あの黒い乞食さんは誰のもの”となるんだよと。

本題に戻るが、インターネットのほとんどの歌は、Nona manis siapa yg punyaは同じだが、最後のフレーズが “Yang punya ibu saya” とか、

  ”Yang punya mama saya”(お母さんに決まっているでしょう)となっているのが多かった。

このNona Manis は元来子供の歌なので、誰かの恋人になるには早すぎるし、お母さんに甘えたい年頃なので、

  “あら、可愛いわね”より“お母さんにべったり”の方が現実的でいいのかも。

又、お役所主導だろうか、学校で教える都合からであろうか,最後のフレーズが “yang punya Indonesia” とか “yang punya kita semua” とか

  いかにも教訓的なのも頷ける。何といっても、子供は国の宝なんだから。

少子化を大騒ぎしているどこかの国でも、“可愛いあの子はどこの子よ、ああ、うちの子よ!”と皆が歌えるようになればいいのにね。

と、ここで皆さん、お気づきですか?インドネシアでは誰の子、日本では何処の子となることに。

個人と家のどちらが主体なのか、ここに文化の違いを感じるのは筆者だけだろうか。

更に、日本でも十分通用する方法だと思うのに、学校での英語の勉強の一助にしたのであろうか、メロディはそのままNona Manisと同じで、

  Ingat ingat itu  Remember

  Jangan lupa itu  Don’t forget

  Aku cinta itu  I like you

  Hanya engkau  Only you

という替え歌もある。

前半分のインドネシア語は英語では後半分のような言い方になるんだよ、と。

Nona manisの歌は、もはやLagu Daerahの枠を超えて、国民的な“お囃し”メロディとして、曲と曲の合間につなぎで挿入したり、

  替え歌のメロディとして親しまれているものと思われる。

 最後に勝手に、自分流の訳をつけてみた。

「あら、可愛いこの子はいったいどこの子かしらね?」x3、「いやん、おかあさんたら! いじわる!」ってな、母子の日常会話にしても、

  意味が通りそう。           (続く)

インドネシアの歌(18):マルクの歌 (3)

今回はマルクの歌ではあるが世界中のクリスチャンがマルクの歌だとは知らずに歌っているだろう曲を紹介しましょう。

それはインドネシア名 “Naik-naik Ke Puncak Gunung” (山の頂に登ろう)という歌である。

この歌も前回紹介した Nona Manisと同じく非常にポピュラーな子供の歌です。歌詞は下記のとおり;

1) Naik-naik ke Puncak Gunung,

   tinggi tinggi sekali  x 2回

   Kiri Kanan Kulihat saja

   banyak pohon cemara  x 2回

2) Naik-naik ke Gunung Nona

     kusu kusu melulu  x 2回

   Meski cinta tinggal cinta

     mama panggil beta pulange  x 2回

意味は、

1)山の頂に登ろう、とっても高いよ

   右を見ても、左を見てもCemara ばかり

2)女の子向きの山だよ 一杯登っているよ

    好きな人に心残りはあるんだが、お母さんが呼んでいるのでもう帰らないと

実は2番の歌詞は正直なところ、これまで歌ったことは無い。

不埒な連想をする輩が多いからかどうかは定かではないが、ラグラグではあまりポピュラーではなかった。

しかしkusu-kusu meluluは“沢山の人が群をなす”というような光景のことなので、2番の訳は男山(雄岳)に対する女山(雌岳)と解釈して

  筆者がきれいに想像したもの。

 ところで、みなさんCemaraって、どんな木か想像できるでしょうか。

針葉樹(松)の一種です、といわれても実物を見た人でなければピンとこないですね。

ネット等で写真を見れば「ああ、これか」と直ぐわかりますが、馬の尻尾の様に細長い繊維の様な葉が幅広い房のように枝から垂れさがっている

  少し薄気味の悪い感じの木です。

さて、歌の解説はここまで。本題の世界的知名度に戻りましょう。

筆者はこれまで、本曲は讃美歌からマルクの民謡になったものと思っていたのですが、その後の調べで、

  なんとマルクの民謡が賛美歌に採用されていたと云う事がわかりました。

教派によって賛美歌の歌詞は違うのかも知れませんが、日本基督教団出版局の賛美歌集21では、頌歌編、マリアの賛歌として

  同じメロディで日本語の歌詞が付いています。

註にはちゃんとインドネシア民謡からと記されています。

マルクには初めポルトガル人が渡来し、カトリックを布教しただろうから、マルクから持ち帰ったメロディを聖母マリア賛歌に分類したのは

  極く自然なことだったのだろう。

このNaik-naik ke puncak gunungは讃美歌集をチェックしていて偶々、「あれ、これは同じじゃないか」と見つけたからであるが、まだまだマルクには

  外国曲が元歌ではないかと言われる歌が多々あるらしいが、筆者の識る範囲にはポルトガルやスペインやオランダの民謡や歌がほとんどないのが残念。

マルクは多くの島々で成り立っているので、当然、浜辺・海・航海に関する情景がよく歌われているが、その背景には多くの

  若者が他の島に出稼ぎに出る事情があることから、故郷以外の島は“外国=tanah asing”であり、見知らぬ人の中で一人で非常に淋しい思いをしている。

早く、お母さんの所に帰りたいよ、と故郷を懐かしむ歌が多い。

又、出稼ぎに出たまま、帰らない男も多かったとみえて、恋しい人の帰りを待ち焦がれる女性の物語も多い。

一方浜辺でおおらかな遊びに興じる若者たちの情景など、日本人に歌いやすいメロディの歌も多い。それらの歌は又別の機会に紹介していきましょう。

   

インドネシアの歌(19):Asalの謎

この項は以前一度当ニュースに載せた内容の追加修正版であることを断っておく。

インドネシアの歌で“暫し別れ”の決り文句

asal … 又は asal saja… は実は長いことどんな解釈をしたらいいのか分からなかった。

これまでの勉強の範囲では、asal は“であれば”とか“でありさえすれば”とかの意味で、英語でいえば “as long as …”という意味であったが、

  別れのセリフとしては、いくら文化の違いだとしても、どうしてもしっくりこなかった。

ここでもう一度インドネシアの歌にでて来る典型的な表現“別れのセリフ”を紹介してみよう。

男性が恋人を故郷に残して、多分出稼ぎに都会へ出て行くのであろうが、別れの言葉として「きっと迎えに帰って来る」と言うのに、

  そのセリフの後に ”asal kau menanti” とか ”asal kau setia”とかが付くのであるが、その意味を“待っていてくれ(さえし)たら”、

  “誠実であったら”と訳したのだがどうもしっくり来ないものがあった。

Pergi untuk kembaliという曲には”Hanya sekejap saja ku akan kembali lagi, asalkan engkau tetap menanti” と歌っている。

  (ほんの瞬きする間に帰ってくるよ、asal …)

Saling Percayaという曲では”Cinta kasihku padamu ....sampai matipun aku jalani, asal kau setia” (私の愛は死んでも貫き通すよ、asal …)。

恋愛に酔った若者の(たぶらかし)セリフの代表に“Tinggi Gunung Seribu Janji” というのがあり、意味は山ほどの約束というか、

  比ゆ的に恋愛中の美しい美しい約束を意味するのだが、そっくりそのまま同じ題名の曲があり、

  ここでも”Seribu tahun kau berjanji, seribu tahun ku menanti. Asal saja kau setia, aku tak melanggar janji” 

  (生涯の約束、ずっとずっと待つよ、asal …、決して約束を反故にしないよ)と歌われている。

マルクの歌にOle Sio という歌がある。マルク語なのだが、大体の意味はBahasa Melayu が分かる人なら分かるのだが、

  中に Beta ingin mau pulang, kalau panjang umurku, Asal saja Tuhan sayang,  kating akan bertemu 

  帰りたいよー、もし長生き出来れば(機会があれば、とぐらいにとりましょうか)Asal …、きっと又会えるでしょう、と歌われている。

ここに至って、Asal の意味をもう一度突き止めようとKamus Besar を調べたら、asalには、“要は、要するにとか、好きなように”、とかの意味があることを発見。

  このことからasalには、言われた方に結論を出させる、自分には断定できない、更に悪乗りして“神のみぞ知る”、の境地だと拡大解釈してみた。

asal saja を“どうなるか分からないんだが、Insya Allah”と解釈するとこれまでの疑問に答えが出てきたと思う。

マルクの歌なら、“神の恵みで、きっと我々(kating)は又会えるよ、と。初めの方に紹介した歌も、いずれも“先のことは正直分からないんだが、

  神のご加護があれば、きっとそうなるよ、だから誠実に待っていてね、(もし神がそう望まなければできないだろうから、そのときはご免ね、なんて)”

実際当初は歌の中ながら随分無責任な文化だなと思っていたが、asalを条件ではなく、一種の諦観と考えれば、人種、言語など広範にわたる島嶼文化

  というか島嶼人気質というか、生活上の必要性からそんなものだと考える様になったのだろうと考えると、何となく理解出来るような気がする。

歌って面白いですね!  では又、

ラグラグ会 渡辺重視

 

 

 

 

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